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社会の隅っこから

アスペで躁鬱で神経質な私の思うこと。

村上春樹の楽しみ方

本・漫画

私は村上春樹の本がわりに好きです。

ハルキストというほどの熱狂的なファンではありませんが、長編は全部、短編もほぼすべて読んでいます。

 

今回は新作が発売されたこともあるので、”私の”村上春樹の楽しみ方について書いていきたいと思います。

 

まず私の読書歴なんですけど、けっこう早熟で、小学生の高学年から村上春樹を読んでいました。

活字中毒で速読できたので、児童向けより大人向け(?)の文学が好きでした。

基本的には家の棚にあったやつを読んでいたので、好きな作家は家族の影響をもろに受けてます。他には宮本輝とか好きです。

 

読み方はけっこう適当で、勢いバーッと読んで、面白かったらすぐにもう一度読み返す感じ。ストーリーの細かいところはあんまり気にしないです。

どちらかといえば、美しい(とまではいかなくとも”まとも”な)文章をばくばく食べるために本を読むというのか。もちろんストーリーの中で感じるものはあるんですけど。

 

だからですね、新作の「騎士団長殺し」が発売されたことで、テレビで村上春樹についてやってたんですけど、そこで出てきたファンの楽しみ方も、アンチの意見も全然しっくりこなかったんですよ。

村上春樹のファンって、作品に出てくる不思議な存在の分析というか、謎解きが好きな人が多い気がするのですが・・・全然興味ないです。

アンチの意見としては「サンドウィッチ作ってビール飲んで、いっつもそんな感じ」とか「伏線が回収されていない」とか、現実味がないことへの批判がテレビでは出てきてましたね。それも気にするところがおかしい気がします。どういう風におかしいかは、あとで詳しく書いていきますが。

 

本というものは、そういう理屈じゃなくて、文章と話の流れが人を惹き込み、読んだ後に何かが残ればいいんです。”物語的”な整合性があればよろしい。

”物語的”な整合性とは(今勝手に作った言葉なんですけど)、損傷と回復、善なるものと悪なるもの、矛盾と葛藤・・・、そういう人間の本質的な何かや、世界の在り様の整合性のことです。その手ごたえのリアリティというのか。

人間はこういう風に傷つくよな、暴力ってこういうものだよなっていう”質感”や”量感”が大事なわけで、登場人物の生き方が現実的でないとか、この不思議な存在にはどういう意味があるんだろうとか、そういうのは無粋な気がします。

 

もちろん読み方・楽しみ方は人それぞれですし、合う合わない個人の好みはありますが、そこに語り合う意味はないというのか・・・。

こういうとこが面白い、こういうとこが気に食わない、というのは作品の問題ではなく個人の問題なわけで、そのディスカッションの答えは「作品の評価」ではないのに、そんな風に扱われちゃってるのが気になります。

そのディスカッションが熱を帯びることが「作品の評価」を示してますよね。もう間違いなく文学的成功を収めています。

  

主人公にほいほい女が寄ってくるのが気に食わない、みたいな批判がよくあるみたいですけど、それただの自分の卑屈さを映し出してるだけですし。それをまっとうな批判みたいに言わないでほしいです。

「僕は女にもてないのを気にしてる、残念な人間です!」って声高らかに言ってるようなもんですからね、見苦しいです。

 

そもそも村上春樹の作品の舞台は、現代日本社会ではないんです。言うならパラレルワールドです。

現実味がないからおかしいなんて、「ハリーポッター」に向かって大真面目に箒で空を飛べるなんておかしい!って言うくらい、変な話だと思うんですけど。

 

謎解きもね・・・。答えは一人一人の中にあって正解はなし、読み返すたびに自分の中でさえ変化していくもの、だと思うんです。

「答えが委ねられているから面白い」というファンの意見は全面的に賛成ですけど、それを理屈で突き詰めると”自分にとっての答え”という一番大事なものが逃げて行っちゃう気がします。

 

とはいっても、私もインターネットで「村上春樹 謎解き」と検索したことあるんですけど(笑)

検索したらすぐに出てくると思うのですが、なかなかよく出来たブログがありまして、興味深く読ませていただきました。

「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」でシロをレイプしたのは誰か、「ノルウェイの森」の直子はどのような自己矛盾に苦しみ死に至ったのか、って解説はなるほど!って感じでした。

私個人としてはシロをレイプしたのは”悪なるもの”で、それを現実的に追求することにあまり興味はありませんが、現実世界でそれなりの答えが出るもんなんですね。感心。

 

私も謎解きではないですが、「ノルウェイの森」で僕と緑がそのままうまくいったのかについては答えがあります。

(↓語りたいので私の答えと理由を書いていきます、無粋ですいません)

 

 

僕と緑はうまくいかない、長くは続かず別れる、それが私の答えです。

僕は緑といるときに「直子を捨ててこの子を選んでしまった」という罪悪感を完全に消すことができないと思います。誰かの死の記憶とともにある愛を背負っていくのは、年若き二人には難しいのではないでしょうか。たとえ直子が僕を愛していなくて、緑との出会いに関わらず死んでいたとしても。

でもだからといって僕が不幸になったのではなく、物語冒頭で飛行機にのっていた30代の僕は結婚して子どももいると思います。孤独な男性ではない感じがする。それなりに心安らかに生きていないと、ああやって振り返れないんじゃないでしょうか。

半年やそこらで合意のもと関係を解消して、その後はあまり(あるいは全く)関わることなく別々の人と幸せになる感じかなー。

 

それもまた、次に読み返したときには答えが変わっているかもしれませんが。

答えが変わらなくとも、齢をとるごとに「どうしてこの人がこうなったのか」の理由がはっきりしてきた気がします。そもそも10代のころはそんなこと考えすらしなかったんですけど。

ただ、理屈ではっきりしてきたのではなく、感覚的にそういうのわかるなー、ってなってきた感じです。

少しは成長(退化だったりして・・・)しているのかもしれません。

 

まあ結論としては、村上春樹の楽しみ方は”考えるより感じろ”です。

「騎士団長殺し」、まだ買ってないけど楽しみですねえ。

 

P.S.ただ、「騎士団長殺し」ってタイトルが潰滅的にダサいと思うんですよね。

内容は大丈夫なんだろうけど、何となく購買意欲がわかない・・・

3月のライオンと”悪”

本・漫画

 

私は「3月のライオン」が好きで、全巻持ってもいるのですが、最近の展開にはちょっと疑問があります。

なのでこの記事はわりに批判的なものです。それでもいい、という方は読んでください。

 

知らない人のために少し説明しておくと、「3月のライオン」は羽海野チカ先生(「ハチミツとクローバー」の作者です)の漫画です。

内容的には、小さい頃に両親・妹を亡くし、中学生で将棋のプロ棋士になった孤独な少年(零くん)と、下町に住む三姉妹(親代わりのあかりさん、中学生のひなたちゃん、幼児のももちゃん)との交流を描いた将棋&成長物語、といった感じです。

 

最近アニメ化、映画化されましたし、世間の評価も高く、基本的には読んで損はない漫画です。※完結はしてません。私にとっても、途中まではほぼ文句なしでした。

あまり嫌な展開がなく、零くんと三姉妹の温かな交流と、プロ将棋という厳しい世界の様々なドラマがよく描けていたと思います。

 

私が疑問を持ち始めたのは、三姉妹の次女、ひなたちゃんのいじめ問題からです。

中学校のクラスでいじめが起こり、いじめられていた子を庇った彼女もいじめられて、それに立ち向かっていくんですけど。零くんも自分に出来る事を探して、彼女をサポートしようと頑張って。

そっちの被害者サイドというか、ひなたちゃんの踏ん張り、零くんの不器用な頑張りは、なかなか素敵だっだと思います。

気になったのは加害者サイド、いじめっ子の描き方です。

 

最後は先生の介入によっていじめが終わるのですが、いじめっ子は(表面上は謝っても)反省する様子なくフェードアウトしてしまうんですよね。

先生と何度も面談するも進歩がないまま、卒業というタイムリミットが来て、先生が一方的に「お前は不安なんだろう」みたいなことを言って終わり。

彼女は子どもですからね・・・、いじめは良くないですが責任は大人にある年齢です。彼女が不安なら不安にならないようサポートしなくてはならないし、他人を尊重できるために必要な経験を与えなくてはならないんです。

 

ひなたちゃん個人としては「許せない」のは仕方ないですし、いじめっ子を理解しようとする必要もないと思いますが、作品としてはもう少しいじめっ子にも寄り添ってほしかったです。

なぜいじめをするに至ったのか背景を描写してくれないと、いじめをする人は”悪人”で、わかりあえない存在だと言ってしまっている気がして悲しかったです。

 

環境に恵まれなければ誰でも”悪人”になれる、と私は思うんですよね・・・。生まれ持ってのものではない。更生の余地は絶対にあります、子どもなら特に。

人間は悪も善も両方持っているから、どっちに転ぶか次第なんだよ、というのか。いじめついて描くとき、そういう部分を欠かしちゃいけないと思うんですよ。

 

それもいじめっ子のエピソードだけならまだ許せたのですけど、いじめのストーリーの後にまた”悪人”として三姉妹の父が出てくるんですよね。そしてこちらも寄り添われることなく、同情不能なままフェードアウト。

まあこの父は相当しょうもない人ではあるんです。甘ったれた理由で仕事やめて浮気して離婚、という美しさ。さらに離婚は三姉妹の母が病気で弱っているときで、その後亡くなってもいますからね。それが突然帰ってきて「これから一緒に暮らそう!」ですから、ほんと悪人でしかないんですけど。

 

ただすべて彼が悪いかというと、まあ悪いんですけど、まずそんな男と結婚した母親に少し責任があるんじゃないでしょうか。

間違って結婚しちゃうまでは仕方ないとしても、浮気されて離婚するとなった時もまだ愛してるのはどうかと・・・。

そのせいで彼のしょうもない要素を助長してしまったというか、そこで完璧に切り捨てていれば、「一緒に暮らそう!」なんて来なかった気がするんですよね。

 

結局は人間の悪というのは行為ですから、例えば野原で独りぼっちならどんな悪人でも悪をなせないわけです。

コミュニケーションによって悪は生まれ、コミュニケーションの責任は双方にある。つまり三姉妹の母にある弱さが、彼の悪を引き出してしまったというのか。

それで彼女だけが傷つくなら構わないんですけど、子どもを産んで何の罪もない子どもを傷つけてしまったことに関して、彼女が”悪い”とは言わなくとも”無責任”だと思います。

 

まあ、そこは物語の本筋ではないので置いておいておきましょう。

三姉妹の父騒動でもう一つ問題なのは、零くんの暴走ですよ。三姉妹を守りたい気持ちはわかるのですが、感情移入と介入の度が過ぎると思います。

 

守りたいと奮闘する過程で、ひなたちゃんへの恋心を自覚してからが特にひどい。勝手に婚約者扱いして、将棋仲間に話しちゃう。ストーカーの思考回路じゃん?それ。

そんなことされてたら気持ち悪くないですか。

あかりさんの結婚相手探しも勝手に始めるんですが、それもどうかと・・・。

 

勝手に「一緒に暮らそう!」と帰ってきた父は”悪人”で、勝手に「婚約者!結婚相手探し!」してる零くんはお咎めなし。

自分の気持ちや見方で勝手に行動する、その相手への”想像力の欠如”こそが悪の始まりだと思うんですけど。その人のことをわかってるから大丈夫、ではなくて、何かしてあげたいなら「こうしてもいい?」っていつも聞かないと。

いじめ問題のときの零くんは、それが出来ているのが素敵だったのに。

 

ハチミツとクローバー」でも感じたことですが、一方的なコミュニケーションをする登場人物が多いし、作品全体のメッセージとしてそれを肯定さえしてますよね。

いつまでも未練がましく片思い、振られてるのに態度に出し続ける。勝手に相手のため!と行動する。

本当に好きで大切に思うなら、第一に相手の気持ちを考えなくてはならないと私は思うのですけど・・・。わかりませーん。とにかく悪と善の表裏一体の部分というか、人間の闇についての理解が足りないと感じました。

 

とはいっても、物語もまだ途中ですし、これから零くんももっと成長するだろうし、その中で悪人サイドへの理解やなんやらも描かれるかもしれません。

そう期待したいところです。

 

たぶん私が気にしすぎなんでしょうね・・・。大人の責任とか、コミュニケーションの正しさとか。

子ども相手の仕事をしているので(今はメインは違うんですけど、それ関係ではある)、譲れない部分があるんです。

 

実は他にもたくさん譲れなかったり気になったりしちゃう部分があって、見れない漫画やドラマなんかも多いです^^;

最近では「逃げ恥」がダメでしたね・・・、みくりの仕事への姿勢が甘っちょろくて。

 

とにかく何事に関しても、ケチつけがちなんです。楽しめる範囲が少ない。

他人と楽しさを共有するのが難しいわけで、だから友達少ないんだよなあ。

 

悲しくなってきたので、このへんで。失礼します。

グレート・ギャツビーの魅力

本・漫画

一応ブログのカテゴリーを読書にしてしまったのもあるので、今回はフィッツジェラルド村上春樹訳「グレート・ギャツビー」について書きたいと思います。

※ネタバレ注意、小説の文章をそのまま載せているところがあります

 

この本は時代的にいうと、アメリカがどんどん経済発展をし、盛り上がりまくってた頃の話です。

1925年に出版されたものということで結構古いのですが(作者は若くしてとうに死んでもいます)、現在はアメリカ文学を代表するものの一つ、名作としてしっかり地位を確立してもいます。

 

ストーリーについて言うと・・・難しいですね。私からすると、ストーリーに関してはよくわからないというのが正直な感想です。

起承転結はあるのですが、「うーん何が言いたかったんだろう」というような、スッキリしないものです。実際に読んだ人も、何が面白いかわからなかった、そもそもどんな話だったっけ?というような反応が多いように思います。まあ、それほど沢山の人の意見を聞いた事がある訳ではありませんが・・・

 

ストーリーを三行でまとめると、

ロマンチックな夢を追い求めた男(=ギャツビー)が

その夢と愛に敗れ

儚く散るひと夏の物語(を主人公のニック視点から見たもの) です。

ストーリーラインよりは、フィッツジェラルドの美しい文章、哀しみ、人間の美しさと矛盾、死を小説全体で描き切ることに成功しているのが素晴らしいと思います。

 

この小説の書き出しはこうです。

”僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。この言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたのではないのだと」”

 

この文章、訓話のようなものですが、私は好きです。基本的に訓話は大嫌いなんですけどね。リアルで誰かに言われたら「だからどうした、うるせえなあ」と思うかもしれません。

しかしフィッツジェラルドの小説に出てくると、なぜか説得力をもってすっと入ってきます。そしてこれが、この小説の語り手(ニック)の基本的態度でもあって、大事な要素になっている気もします。

謙虚に控えめに、中立的に。考察はしても判断は下さず、コミットしながら同時に観察者であれ。これがすぐれた小説の語り手に求められる条件だと思うのですが、どうでしょう。

 

そして終わりの文章がまた素晴らしい。こちらはギャツビーの生きざまを鋭く表現してもいます。

”ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・・・そうすればある晴れた朝にー”(もう二文続きますが省略します)

 

私がぐちゃぐちゃ語るよりも、始めと終わりの文章がこの小説の魅力を端的に伝えてくれていますね。

 

ちなみに、最近DVDで見たのですが「華麗なるギャツビー」という題で映画になってもいます。

ギャツビー役はレオナルドディカプリオ、私の抱いていたギャツビー像とは違いましたが、全体的には悪くない映画でした。小説ではイメージしきれなかった登場人物の造形や、風景や時代なんかを感じられました。

 

フィッツジェラルドの本は他に「冬の夢」という短編集も持っています。あとは図書館で借りて長編小説「夜はやさし」も読みました。

「冬の夢」は文句なしに美しい名作です。「夜はやさし」は「グレート・ギャツビー」と比べると格が一つ落ちると言われていますが、私としてはむしろこっちの方が好みかもしれません。内容のわりに長すぎる感じは否めないものの、メンタル病んでる人(統合失調症)が出てくるのもあって、心を掴まれます。

 

まあ基本的にメンタル病んでる人が出てくる小説は好きですね(笑)精神科を受診している系はもちろん、心が壊れちゃってる系もいいです。

村上春樹ノルウェイの森」「色彩を持たない多崎つくると 彼の巡礼の年」、乃南アサ「晩鐘」、レイモンドカーヴァーは基本的に主人公家庭崩壊してますし、太宰治もやばいし、レイモンドチャンドラー「ロング・グッドバイ」もそうかな、あと諸々・・・

 

また色々とお気に入りの本については紹介していきたいですね。

グレート・ギャツビーについてはこの辺で。失礼します。